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FAO駐日連絡事務所 Liaison Office in Japan

第3回 GIAHS認定地の具体例(世界の農林水産2017春号掲載)

遠藤 芳英

FAO GIAHS事務局GIAHSコーディネーター

今回は、世界農業遺産(GIAHS)の具体的な事例を見ていくことにします。具体的な事例を見ることによって、GIAHSとはどのようなものであり、さらにさまざまな課題も見えてくるからです。

1. マサイ族の牧畜システム(ケニア)

マサイ族の伝統的牧畜とその特徴

マサイ族とは、アフリカのケニアとタンザニアの国境をはさんだ南北にまたがる地域で、長い間遊牧を営んできた民族です。推定で200万人いると言われ(諸説あり)、さらに12ほどの細かな部族に分類されると言われています。ケニアやタンザニア国内ではそれぞれの国を構成している主要な民族ではなく、少数民族となります。遊牧とは、水や天然の草地を求めて家畜とともに移動する畜産の形態ですが、マサイ族は、少なくとも数百年の長い間、牛、羊、山羊の遊牧で生計を立ててきました。このマサイ族の牧畜のシステムが、2011年にケニアとタンザニアの別々の案件として、GIAHSに登録されました。このうち、本稿ではケニア側の認定地を例に挙げてご紹介します。ケニアでは、地図に示したKajiado地域の中の、Oldonyonyokie とOlkeriという区域で牧畜活動を行うマサイ族がGIAHSとして認定されています。

 長い間、伝統的な遊牧を行ってきたマサイ族ですが、遊牧は非生産的であり、家畜の過剰飼育をもたらすため草地の劣化が生じるという認識がかつては主流であったため、19世紀の英国植民地政府や独立後のケニア政府は、マサイ族の定住化を推進し、1960年代や70年代には、世銀や先進国の指導のもと近代的な畜産の導入が試みられるなど(結局はうまくいかずに中断)、次第に遊牧の継続が困難な情勢になってきました。それをさらに決定づけたのは、土地政策の影響です。昔からマサイ族が遊牧を行ってきた広大な地域が、国立公園や野生動物の保護区に次第に指定されるようになり、さらに農地として開発され個人所有の土地となっため、昔ながらの広大な土地で家畜を連れて移動する遊牧は、大幅な制限を課されてしまうようになったのです。こうした制約に加え、人口の増加、市場経済の浸透や社会的な変化により、今まで牧畜だけで生計を維持していたマサイ族が、一部で農業を始めたり、観光業を営んだり、都市部に賃金を求めて移住するなど、さまざまな変化が生じてきています。それでも、マサイ族は今でも民族の特色を牧畜とみなし、天然の草地を利用した家畜の放牧や飼育を経済活動の中心として営む集団が存続しているため、伝統的な知識や慣行の残る地域がGIAHSとして登録されています。

 マサイ族の遊牧は、過去の経験で蓄積された多くの知識や経験によって営まれてきました。まず、乾燥地帯という厳しい環境の中で、家畜である牛、羊、山羊が食料とする異なる種類の草がどこに、どのように育成しているのかを把握する必要があります。また、マサイの遊牧地はアフリカの野生動物の領域とも重なってきたため、肉食動物であるライオンの襲撃や他の草食動物との食料の競合を避け、野生動物の病気から家畜を保護する知恵も求められます。家畜の移動の際には、これらの状況の総合判断を行い、適格な移動先を決めます。また、所与の環境の中で、牛、羊、山羊といった家畜種の割合、オス・メスの割合や年齢構成も、家族の食料の確保にとって適正なものになるように決定し、家畜の増殖に際しては優れた特色を有する個体を選択することで、厳しい環境でも育つ種を保全してきました。こうした中には、乾燥や病気への耐性が優れた固有種もあるとのことで(Red Maasai Sheepなど)、海外からの関心も集めています。これらの知恵は代々先祖から受け継がれてきたもので、伝統的な知識が今日でもマサイ族の牧畜を支えており、厳しい乾燥地域での生活を可能にするための多くの慣習や規則が決められてきたのもマサイの特徴です。

 前述したとおり、伝統的な遊牧は非生産的、前近代的な行為とみなされ、また草地を破壊するものとして認識され、マサイ族の遊牧は数々の介入にあってしまったのですが、最近の研究では、適切な管理を伴う遊牧は、持続可能で効率の良い生産システムであり、またマサイ族の遊牧は、サバンナの野生動物との共存が可能であるばかりか、アフリカを代表する草地の景観の形成や維持に貢献してきたとの報告もあるとのことで、その価値を見直す機運が高まってきました。GIAHSの認定も、そうした認識の変化を背景に、代々引き継がれてきた知識や農法を、次世代にも伝えていくべきとの問題意識も働いたと思われます。さらに、マサイ族は、自分たちの遊牧を民族の生きざまや象徴として考えていることも大きく影響していると思います。すなわち、農業の遺産ではなく、民族の遺産と認識しているのではないかと思われます。

GIAHS取得後のモニタリング

その一方で、マサイ族のGIAHSは、こうしたマサイ族の民族意識、生活様式、経済的・社会的発展という大きな問題にも関与しているため、大変難しい問題を提起しています。このマサイ族のGIAHSの提案と同時に作成された「行動計画」には、家畜のための水場の確保や餌となる草の蓄積や保存などの措置や、伝統的な知識の文書化などの内容が計画されています。しかし、マサイ族が今後も市場経済に取り込まれ、経済や社会の近代化に影響を受けることは必定であり、それにつれてより広範な対策が必要となることも予想されます。マサイ族の子どもの教育など、さまざまな財やサービスのために今まで以上に現金収入が必要になってきています。また食生活も従来の畜産物や質素な穀物中心の食事から、多種多様な食材を食べるものに変化していくことが予想されます。市場経済の浸透により、今まであまり考慮しなくてもすんだ畜産物の品質や安全性の向上も求められるようになるでしょう。こうした環境の変化に、伝統的なマサイ族の牧畜様式を守りながら、どのように対応していくのが良いのかという大きな課題を考える必要が出てきます。GIAHSの取得後、どのような対策や対応が行われているのか、これから情報を収集する予定です。これが今までの連載で述べていたGIAHS採択地域のモニタリングです。そうしたモニタリングの結果、さまざまな対策がどのような効果や影響を受けているのかを評価し、その結果いかんでは、対策の修正や変更を考えていくことが必要になります。「モニタリング」と「評価」が1つの用語として使われるのはこうした背景によるものです。また、GIAHS地域への対策は、民間やNGOや地元農家だけでなく、政府の関与が必要となるものもあるため、GIAHSの立案から提出に至る過程で政府の関与が重要になるのです。マサイ族の場合も、マサイ族の生活やマサイ地域の発展の在り方という大きな問題につながるため、農業政策を超えた対応も求められることが予想されます。

2. タンザニアのアグロフォレストリーシステム

背の高い天然の樹木、バナナやコーヒーや果樹の木の栽培と野菜などの植物を一定の土地に混合栽培し、これらの作物がお互いに支援し合う仕組みを利用した農法があります。アグロフォレストリーと呼ばれる農業生産の形態です。その特徴は、背の高い樹木が強い直射日光から畑や作物を守る日よけの機能や土壌の保水と地力維持の機能を果たし、その木の下に、バナナ、コーヒー、果樹などの木を植え、これらの栽培に適切な環境(適切な湿度)を作り出します。さらにこうした樹木の下で、野菜や農作物を栽培するというものです。場所によっては、多種多様な植物から得られる有機物を飼料として、家畜の飼養まで行うところもあるそうです。アグロフォレストリーは、こうした人為的に作られた環境で生産を行う手法で、それぞれの作物を単独で栽培するよりも、持続可能性やレジリエンス(強靭性)を高めるシステムといわれています。また、こうした多種多様な作物や樹木の栽培により多様な農作物の育成が見られ、生物多様性の保存にも貢献できます。

 タンザニアにあるキリマンジャロ山の東から南の斜面の海抜800-1000m地帯では、長い年月をかけてこうしたアグロフォレストリーの栽培が発達し、今日でも存続していることから、Shimbwe Juu Kihamba Agroforestry(別名Chagga Homegarden)との名称で2011年にGIAHSに指定されました。Chagga Homegardenは、キリマンジャロの山麓にこうした人的な手が加わって形成された独自の景観を維持してきました。また、さまざまな作物を混合栽培するための樹木の選択や管理、作物の育成などのための伝統的な技術に加え、畑を植物の葉で覆う土壌管理手法、水路の維持、畝を作り斜面の崩落を防ぐ技術など、代々引き継がれてきたさまざまな知識が集約されています。

こうした人々の知恵の結集である生産システムですが、近年、経済的、社会的な変革による影響で、若い世代が農業への関心を示さなくなってきていることに加え、この地域で人口が増加したため農地の零細化が進み、経済的に成り立たない農家が増加したこと、さらにコーヒー価格の低迷により農家が貧困に苦しむことになり、加えて、寿命を迎えたコーヒーの木の更新が進んでないというような問題が生じています。また、気候変動や灌漑施設の老朽化により、水不足も発生するようになってきたようです。Chagga HomegardenのGIAHS採択の際に策定された行動計画では、

■ 農民の土壌管理能力の向上

■ より付加価値の高い作物の導入

■ 有機コーヒーの栽培やコーヒー生産力の保持や向上

■ 水路の復旧、ため池の設置などの灌漑効率の改善

■ 伝統的な農法の文書化とその維持

■ 観光業の振興

■ 最低経営規模の設定

などのさまざまな対策を講じることになっています。前述のマサイ族のケースと同様に、この地域での行動計画の実施状況や現状に関する情報収集はこれから実施する予定です。

関連ウェブサイト:FAO:GIAHS:www.fao.org/giahs/giahs-home

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