国際連合食糧農業機関(FAO)駐日連絡事務所

世界農業遺産(Globally Important Agricultural Heritage Systems, GIAHS)とは?

世界の農業文化的遺産システムを保全・支援するため、FAOは2002年、世界農業遺産(GIAHS)の保全および適応管理のためのイニシアティブを開始しました。

このイニシアティブは世界農業遺産(GIAHS)の世界的な認知、動的な保全、適応管理、また、世界中で農業的生物多様性、知識システム、食と暮らしの安全および文化を保護し支援するための礎を築くことを目的としています。

世界的に固有の農業システムや景観は、地域に適合した管理手法を用い、また、多様な自然資源に基づき、何世代もの農民や遊牧民によって生み出され、形づくられ、維持されてきました。地域の知識と経験に基づきながら、これらの独創的な農文化的システムは人類の進化、知識の多様性、自然との深遠な関係を反映させています。これらのシステムは優れた景観、世界的に重要な農業的生態系の多様性の維持と適応、先住民の人々の知識システム、レジリエンスに富む生態系をもたらしてきただけでなく、とりわけ多角的な商品やサービスの継続的な提供、食と暮らしの安全、そして生活の質を守ってきました。


世界農業遺産イニシアティブは、以下のような動的な保全アプローチを促進するものです。

・ 食料安全保障と人間の福利を確保しながら、農民がこれまでに築いたシステムと生物多様性を育み、適応させる。

・ 生物多様性と伝統的な知識をもとの場所で保全すると同時に、保全的な政策やインセンティブを支援する。

・ 食料への権利、文化的な多様性、地元コミュニティや先住民の人々の成果を認識する。

・ 天然資源の管理のため、遺伝資源をもとの場所で保護するという考え方に、関連する伝統知識や地域の慣例を統合していくというアプローチが必要であることを明確にする。これは、物理的または社会・経済環境の変化に継続的に適応していくための方法として、農業システムの社会・環境的なレジリエンスを強化することによって行われる。

 

このイニシアティブは世界農業遺産(GIAHS)が継続的に認定され、詳細に記録され、国際的に認識されること、また、動的な保全と適応管理のために具体的な政策や行動計画が考案されることを通じて、長期事業の基礎としての役割を果たすことになります。

現在、世界では36ヵ所の地域がFAOの認定する世界農業遺産(GIAHS)に登録されています(2016年8月現在)。FAOで世界農業遺産の業務に携わる遠藤氏が、世界農業遺産とFAOの取り組みを紹介します。

はじめに

世界農業遺産(GIAHS)はFAOが2002年から取り組んできた活動で、国際的に顕著な特色を有し遺産価値のある、次世代に引き継ぐべき農業生産システムを指定し、その保全を促すとともに、それらを取り巻く環境への適応や更なる発展を目指していく事業です。これから数回にわたり、この世界農業遺産をめぐるさまざまな動きを紹介していきたいと思います。初回の今回は、世界農業遺産とは何かを明らかにしたうえで、FAOの事業概要やその仕組みをさまざまな観点から紹介することにします。

世界農業遺産とは

世界農業遺産の英語表記は、GIAHSすなわちGlobally Important Agricultural Heritage Systemsとなっており、このsystemという言葉があるように、単に農業生産活動だけでなく、農業生産を核としたさまざまな要素で構成される包括的な体系を意味します。その中身に関しては、世界農業遺産の成立を見ればよく理解できるはずです。すなわち、世界農業遺産と称されるものは、世界各地において、農民が幾世代もの年月を費やし、気候や地理的な制約要因を知恵と工夫で克服し、環境に適応または環境と調和した農業を育んできた結果、以下に述べるような地球的価値のある特色を有したシステムが形成されてきたものです。

その特色とは、まず、幾世代もの工夫の積み重ねによって、持続可能な農業生産が形成・維持され、その結果、当該農村地域の食料安全保障や生計に大きく貢献することが可能となっていることです。また、環境への適応を目指してきたことにより、農薬や肥料などに過度に依存せずに生態系と調和し、さまざまな作物を組み合わせて収量の変動を抑え、作物間の相互作用を巧みに利用する農業栽培種の多様性(agrobiodiversity)を実現しました。さらに、気象条件や地理的環境への適応・克服を図る過程で、農業生産に関する知恵や工夫や技術を生み出します。そして、農民の長い年月の自然への働きかけにより、その地域の農地は見事な景観を形成するに至るのです。また、こうした一連の営みにより文化が形成され、知識や知恵を伝承するための組織的な活動も発生するようになります。世界農業遺産は、まさにここで述べたようなさまざまな特色を有したシステムとして、世界的な遺産価値を有するようになったものを対象としています。この点は、次回以降で詳しく紹介しますが、ユネスコの世界遺産との大きな違いのひとつでもあります。

さて、今ここで簡単に述べたさまざまな特徴は、実はそのまま世界農業遺産を選定するための5つの基準でもあります。これは偶然ではありません。世界農業遺産は、ひとことで言うと国際的な特色を有する農業システムですが、この特色は上のような背景で形成、維持、発展してきたものであり、そうした考察を基に世界農業遺産を選定するための5つの基準が作成されたと考えていいでしょう。

 

採択された農業遺産

表1は、今までに採択された世界農業遺産の一覧表です。15ヵ国で36ヵ所の世界農業遺産が採択されてきました。詳細は次回以降でまた紹介しますが、全体を概観すると、まさに世界各地の農業を代表するような多様性を示しています。アジアでは、例えば中国やフィリピンの棚田による稲作が特徴的な存在です。棚田自体、日本を含めてアジア地域に多く存在していますが、この棚田はその規模や歴史において、まさに世界的な価値を有するものといえます。この双方の地区では、地元の農民がかなりの年月をかけて広大な自然の山地を水田に替え、見事な景観を造成し、さらに水田に水を供給するシステムや複数の品種による栽培方式を構築してきました。

中国には、これ以外にも10ヵ所の世界農業遺産があります。日本にも8つの採択地域がありますが、日本の果たした役割は、それまで途上国だけが対象と思われていた世界農業遺産が、先進国でも存在しうることを示し、世界的な展開の可能性を示したことです。アジアにはこのほかにも、インドのクッタナードの低湿地帯で営まれる稲作を中心とした農業やバングラデシュの洪水多発地帯での浮き農地を使った野菜栽培など、不利な自然条件を克服した事例が見うけられます。

さらに、南米のチリのチロエ島やぺルーのアンデス高地では、ジャガイモなどの原種に近い品種が現在でも数百種類という規模で栽培されており、こうした農業栽培種の多様性(agrobiodiversity)という特色が評価され、世界農業遺産に指定されています。

北アフリカや中東では、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、アジア首長国連邦(UAE)で、乾燥地帯での農業生産を行う知恵の結晶であるオアシス農業が指定を受けています。興味深いのは、世界農業遺産に指定されたこれらのオアシス農業でも、さまざまな特徴を有していることです。

アフリカでは、ケニアとタンザニアのマサイ族が長年かけて築き上げてきた、自然環境と調和した持続可能な遊牧のシステムや、タンザニアでの森林と農業農作物を組み合わせたシステム(いわゆるアグロフォレストリー)が採択されています。このように、世界各地の知恵と工夫を凝らした特色豊かな農業が指定を受けてきました。

表1からすぐにわかる通り、現在のところ、アジア、特に日本と中国の数が多く、欧州、南米やサハラ以南のアフリカの少なさとは対照的な姿となっています。これは、日本と中国が熱心で取り組みが活発なことに起因するもので、他の地域では最近になるまで世界農業遺産の存在すら知らなかった国も多く、こうした国ではこれから取り組みが開始されるといった段階にあるためです。

南米諸国では、最近になって関心が高まっており、今年の4月下旬、南米全地域を対象にした世界農業遺産のワークショップを開催したのですが、メキシコがチナンパ(アステカ時代から維持されてきた農地)農業の提案書を提出してきたほか、ブラジルでも提案候補地区の認定を開始し、他の南米諸国でも関心が高まっていることが確認できました。アジア地域でも、韓国、タイ、ベトナム、インドネシア等で具体的な提案作りが進んでいると聞いています。サハラ以南アフリカでは、多様な農業が営まれ、世界農業遺産になり得るさまざまな潜在的候補があるのですが、率先して国内の関係者を取りまとめる力に欠けるため、具体的な提案になかなか結びつかないようです。

欧州ではいまだに世界農業遺産の認知度が低いのですが、最近になってスペイン、イタリア、スイスといった国の関係者が世界農業遺産への関心を示してきています。欧州諸国では、ユネスコの世界遺産の文化的景観(cultural landscape)という分類で、いくつかの農業地区が指定されていることもあり、農業遺産との区別がまだ明確でないことも影響していると私はみています。

 

世界農業遺産が目指すもの

ではこのような世界農業遺産に関するFAOの業務は何を目指しているのかを説明したいと思います。FAOは、このような性質を持つ世界農業遺産を指定することにより、遺産的価値のある農業システムを保全し、次世代に継続していくことが重要と考えています。また、単に昔ながらの農業システムを保全するだけでなく、農業システムが遺産的価値を維持しつつ、それらを取り巻く諸環境に適合し、さらに経済的、社会的な発展を促すことも目的と考えています。世界農業遺産は農業が中心ですから、その農業活動が停止しないように伝統的な価値を残しながら、時代に適合していくという基本的視点を有したものなのです。つまり、単に保全するのではなく、世界農業遺産が今後とも継続していけるような変化も視野に入れています。しかし、FAOが単独で世界の農業遺産の保全や更なる発展を実現できるわけではありません。世界農業遺産を有する国、自治体政府、農業者自身やその組合、地域社会、さらには市民社会や研究者が協力して対処しなければなかなか困難でしょう。こうした保全の在り方は、英語でDynamic Conservation(能動的な保全)と呼ばれており、普通のConservation(保全)と意図的に意味の違いをつけた形で使われています。

さて、ここからは今までの世界農業遺産の活動ではあまり主張されてこなかった、私がこれから理論的に構築しようと考えている農業遺産の目標を少しだけご紹介します。FAOはご存知の通り、飢餓や貧困の解消を目指しています。FAOが世界農業遺産を行う意義は、単に遺産的価値のあるものを保全し、維持させることだけではないと思っています。それはむしろユネスコの仕事です。FAOのすべての活動は、世界的な農業の持続可能な発展への貢献を目指すべきであり、そうした意味からも、世界農業遺産はその保全や発展を通じて、指定された地域以外の農業の発展に寄与すべきと考えています。ではどうやってそれを可能にするかは今も模索中ですが、世界農業遺産は、さまざまな試練を生き抜き、持続可能な農業生産を実現してきた存在です。それらの成功体験や革新的な知恵や技術を学習し、うまく適応させることができれば、同じ国や世界の他の国の同様な農業地域の発展につながると考えています。

次回は、世界農業遺産に関するFAOの具体的な業務をご紹介します。

遠藤 芳英 FAO GIAHS事務局GIAHSコーディネーター

今回は、FAO本部における世界農業遺産事務局の具体的な業務内容を見ていきましょう。

1.世界農業遺産の認定業務

① 申請書の作成から提出まで

世界農業遺産(GIAHS)の認定に関する手続きは、以前から慣習的に確立された手続きが存在していましたが、明確に文書化されたものが存在していなかったため、2016年に設立された科学審査委員会(Scientic AdvisoryGroup, SAG)※1の議論を経て、「GIAHS認定手続きに関する指針」を策定しました。

その内容を簡単に説明すると、図1のようになります。まず申請書は各国が作成しFAOの事務局に送ります。その際、その国の担当省庁や機関から送付するように各国に呼びかけています。これは、GIAHS認定地の保全活動を行うためには政策当局の関与が不可欠であり、必ず国が申請内容を把握している必要があるためです。当初、GIAHS保全活動には農業政策が中心的な役割を果たすため、提出国の機関を各国とも農業省に統一するように試みたのですが、国によって事情が異なるとの意見を受けて、各国の裁量に委ねることにしました。

事務局が申請書を接受すると、所定の様式に沿って十分な説明内容が記載されており、科学審査委員会に送れるものであるか否かを確認します。もし明らかに説明内容が不十分であったり、論理が明確でないような場合には、提出国に改善を促します。一見、簡単に見えるこの作業ですが、どのような点を改善すべきかをまとめるのにかなり読み込む必要があり、結構な時間と根気がいる作業です。

例えば、少し前に伝統的な灌漑システムを申請する際に、国全体にあるすべての同様な伝統灌漑施設をGIAHS候補として申請してくる例がありました。これに対しては、本当に世界的な価値のあるものに絞って再提出するようにお願いしています。また別の例では、農業関連の説明より、その背後にある伝統的な精神的文化の記述が中心となっていたため、これも改定と再提出を求めています。また、GIAHS認定地の能動的な保全(Dynamic conservation)※2を行うための「行動計画」が不十分であったりする例もあります。

本題から少し外れますが、この申請書を作るという作業、日本のようなしっかりとした行政組織や有能な専門家が存在する国では、それほど問題なく作成できますが、国によっては結構困難な場合もあるのが実情です。一口に申請書の作成といっても、GIAHSに登録できるようなしっかりとした候補地の把握から始めなくてはいけないわけで、さらにそうした候補地が、同じ国内であっても人種や文化が異なる地区にあるような国もあるのです。そうした場合には、地元住民の理解や合意を取り付けるだけでも相当の労力がかかる場合もあるという話を聞きます。時には、そうした地域の住民が中央政府に懐疑的であることもあり、交渉が容易に進まないこともあるらしいのです。我々としても、GIAHSの候補地の農業者や住民には、事前にGIAHSの申請や認定後のさまざまな影響に関する同意を得ることを奨励しています。これは、さまざまな分野で国際的によく用いられる、Prior Informed Consent(PIC:事前に通知された同意)という考え方です。前出の手続きに関する指針にも、この考え方が反映されています。

② 科学審査委員会による審査

この事務局の確認作業で特段問題なしと判断された申請書は、前出の科学審査委員会に送られます。科学審査委員会は、世界各地の地域(アフリカ、近東、アジア・太平洋、欧州、北米、ラテンアメリカ・カリブ地域)から選出された7名の専門家からなる集団で、GIAHSの科学的な審査を行う機関として2016年より活動を開始しているところです。日本からは、国連大学の武内先生が委員として参加しており、今年の2月に第1回目の会合を開催し、10月にも第2回目を開催しました。

委員会は、申請された地区がGIAHSとして適切か否かを専門的観点から判断します。送付された申請書の精読を通じて、その申請地区がGIAHSの選定基準を満たしているか否かを判断するのですが、文献だけではなく、実際に現地を訪問して、視察や聞き取り調査も行います。こうした複数の情報源から、最終的にその地区がGIAHSにふさわしいか否かを決定します。採択された認定地の情報はホームページに掲載されます。我々事務局は、この委員会の運営を事務的に支援する仕事を行います。

③ 最近の申請事例

GIAHSが知られるにつれて、申請書を提出する国も増えてきました。2015年は日本の3件とバングラデシュとインドネシアからそれぞれ1件ずつ申請が出されただけでしたが、2016年になってからは、エジプト、メキシコ、スリランカ、ベトナム、中国、韓国、インドから提案書が送付されています。このうち、インドは国内の農業研究所からの提出であったため、国を通じて再提出するように要請しています。エジプトは、昨年来の調査活動や国内での協議を経て、比較的よくできた申請書を提出してきました。同国では西部の砂漠地帯にあるSiwaとよばれるオアシス農業で、ナツメヤシやオリーブを中心に、果実や野菜の栽培を行っています。この申請は、10月の委員会で最終的にGIAHSに採択されました。メキシコは、チナンパというアステカ文明から長い年月にわたってメキシコの農民が作り上げた特殊な農地による作物栽培システムが指定されています。もともと現在のメキシコ市の大半は湖だったのですが、農民がまず湖水に浮かぶ浮き畑を作り、さらにその上に有機物や湖の泥を蓄積させて、次第に農地を造成していったのです。これも案件そのものは科学審査委員会でも好評でしたが、提案書の改善が必要との認識に至り、改定を依頼することになりました。スリランカからの申請は、ため池を水路でつないだ伝統的な灌漑による農業システム(タンクシステム)ですが、これも申請書の改定を要請することで合意しました。ベトナムは、石灰で形成された地形に農民が長い年月をかけて農地を造成して営んできた農業システムを申請してきましたが、これも申請書の書き直しとなっています。エジプト、メキシコ、スリランカ、ベトナムの第1回目の議論が終了したので、次には、この春から夏にかけて送られてきた中国と韓国の案件を専門家委員に送り、次回(2017年2月)の科学審査委員会で議論することになりますが、それまでにメキシコ、ベトナム、スリランカなどが提案書の改定版を提出してくることも予想されるため、次回の会議では、多くの申請書の議論を行うことになる可能性があります。

なお、この科学審査委員会の委員は、他の国連の専門委員会と同様に、旅費の支給はありますが、労働対価としての報酬は無償で運営されており、そうした意味からも過剰な業務をお願いしにくいという背景があります。そのため、一度に委員会に各国の申請書を送ると、多忙を極める委員が処理しきれなくなる可能性があるため、逐次送るようにしています。

 

2. GIAHSの業務を支える手引書等の作成

GIAHSのような認定業務を行うに当たっては、その手続きや制度を外部になるべくわかりやすくして、透明性を確保する必要があります。そのためには、認定手続きなどをできるだけ文書化し、公表していく必要があります。また、提案書の作成が意外に困難であるため、作成を支援するための解説書的な文書も示していく必要があります。この作業も科学審査委員会の重要な業務です。本年2月と10月に開催した委員会では、先に紹介した「認定手続きに関する指針」や委員会の業務方法を簡単にまとめた業務手続きなどを新たに作成しました。また、GIAHS認定のための基準や申請様式もよりわかりやすくし、また最新の動向を踏まえて改定しました。今後は、さらに申請書の作成をわかりやすく解説した手引書、途上国を対象にした国内での議論の進め方や検討体制の確立方法を指導する指針、専門家による現地調査の実施に関する細目規定、さらには認定後の現状把握と評価の実施などの指針を作成していくことを考えています。この点に関しては、まだまだ多くのやるべきことがあることを痛感しています。

 

3. GIAHSの普及のための勉強会や広報活動

GIAHS事務局では、さまざまな勉強会(いわゆるワークショップや研修会)を開催して、GIAHSの普及や加盟国の能力構築を行っています。特に最近力を入れているのは、途上国におけるGIAHSの申請書作成や、保全のための諸施策の立案と実施に関する能力向上を目的としたワークショップです。大規模かつ定期的なものとしては、毎年秋に中国で2週間近くにわたり、約20ヵ国の参加を得て開催されており、今年も10月24日から11月4日にかけて行われました。会議室での講義や議論だけでなく、中国国内のGIAHS地区2ヵ所と中国のGIAHS認定地1ヵ所を訪問し、視察や現地での取り組みを学ぶという大掛かりなものです。中国側も自国の取り組みの成果を世界に示す機会でもあるため力を入れているようです。また、現地の要請や必要に応じて不定期に開催する場合もあり、本年4月には、メキシコ市で南米・カリブ海地域の国を対象にした勉強会を開催しました。メキシコ市がチナンパの認定に積極的になっていることを背景に、開会式にはメキシコ市長も登場するなど注目も集めました。6月には西アフリカ地域を対象にした勉強会を開催しています。今後も、こうした能力向上のための勉強会を各地で開催していくことを考えています。

 

4. 今後強化していく活動内容

来年2月に予定されている科学審査委員会では、新たな検討課題として、国連で合意された持続可能な開発目標(SDGs)にGIAHSがどのように貢献できるのかといった課題を検討する予定です。いまや、FAOは組織を挙げて、世界的規模で取り組む課題の解決に貢献する方針を示しています。その中にはSDGsだけでなく、温暖化対策、生物多様性の保全、持続可能な農業の推進といったさまざまな課題があります。2015年のFAO総会で、GIAHSはFAOの業務の中に明確に位置づけられました。このことは、GIAHSの目指すべき目的も、従来からの目的である、次世代に受け継ぐべき価値のある農業を指定し、その保全、現代的な環境への適用や発展を目指すというものに加えて、FAOが達成すべき目標への貢献が求められるようになったことを意味します。そうした意味から、SDGsへどのような形で貢献できるかを模索する必要性が出てきたのです。

また、今までは時間や人的・資金的資源が割けずにほとんど検討できてこなかったGIAHS採択地域の現状把握と、採択以降行われている保全、さらには現代的な環境への適応や能動的な保全のためのさまざまな施策の実施状況やその効果を把握する作業を実施しなくてはいけません。なぜならば、この把握こそがGIAHSの目的に深く関連するからです。もし、GIAHSの現状があまり芳しいものでなければ、能動的保全のための対策を変更していく必要があります。そのためには、GIAHS認定地域の代表者が一堂に会して、有効な保全や発展の対策を議論し経験共有を行う必要性を痛感しています。

※1 直訳すると「科学提言グループ」となりますが、本委員会の性質を表現するために本連載でのみ用いる訳であり、正式のものではありません

※2 本連載でのみ用いる訳です

 

遠藤 芳英 FAO GIAHS事務局GIAHSコーディネーター

今回は、世界農業遺産(GIAHS)の具体的な事例を見ていくことにします。具体的な事例を見ることによって、GIAHSとはどのようなものであり、さらにさまざまな課題も見えてくるからです。

1. マサイ族の牧畜システム(ケニア)

マサイ族の伝統的牧畜とその特徴

マサイ族とは、アフリカのケニアとタンザニアの国境をはさんだ南北にまたがる地域で、長い間遊牧を営んできた民族です。推定で200万人いると言われ(諸説あり)、さらに12ほどの細かな部族に分類されると言われています。ケニアやタンザニア国内ではそれぞれの国を構成している主要な民族ではなく、少数民族となります。遊牧とは、水や天然の草地を求めて家畜とともに移動する畜産の形態ですが、マサイ族は、少なくとも数百年の長い間、牛、羊、山羊の遊牧で生計を立ててきました。このマサイ族の牧畜のシステムが、2011年にケニアとタンザニアの別々の案件として、GIAHSに登録されました。このうち、本稿ではケニア側の認定地を例に挙げてご紹介します。ケニアでは、地図に示したKajiado地域の中の、Oldonyonyokie とOlkeriという区域で牧畜活動を行うマサイ族がGIAHSとして認定されています。

 長い間、伝統的な遊牧を行ってきたマサイ族ですが、遊牧は非生産的であり、家畜の過剰飼育をもたらすため草地の劣化が生じるという認識がかつては主流であったため、19世紀の英国植民地政府や独立後のケニア政府は、マサイ族の定住化を推進し、1960年代や70年代には、世銀や先進国の指導のもと近代的な畜産の導入が試みられるなど(結局はうまくいかずに中断)、次第に遊牧の継続が困難な情勢になってきました。それをさらに決定づけたのは、土地政策の影響です。昔からマサイ族が遊牧を行ってきた広大な地域が、国立公園や野生動物の保護区に次第に指定されるようになり、さらに農地として開発され個人所有の土地となっため、昔ながらの広大な土地で家畜を連れて移動する遊牧は、大幅な制限を課されてしまうようになったのです。こうした制約に加え、人口の増加、市場経済の浸透や社会的な変化により、今まで牧畜だけで生計を維持していたマサイ族が、一部で農業を始めたり、観光業を営んだり、都市部に賃金を求めて移住するなど、さまざまな変化が生じてきています。それでも、マサイ族は今でも民族の特色を牧畜とみなし、天然の草地を利用した家畜の放牧や飼育を経済活動の中心として営む集団が存続しているため、伝統的な知識や慣行の残る地域がGIAHSとして登録されています。

 マサイ族の遊牧は、過去の経験で蓄積された多くの知識や経験によって営まれてきました。まず、乾燥地帯という厳しい環境の中で、家畜である牛、羊、山羊が食料とする異なる種類の草がどこに、どのように育成しているのかを把握する必要があります。また、マサイの遊牧地はアフリカの野生動物の領域とも重なってきたため、肉食動物であるライオンの襲撃や他の草食動物との食料の競合を避け、野生動物の病気から家畜を保護する知恵も求められます。家畜の移動の際には、これらの状況の総合判断を行い、適格な移動先を決めます。また、所与の環境の中で、牛、羊、山羊といった家畜種の割合、オス・メスの割合や年齢構成も、家族の食料の確保にとって適正なものになるように決定し、家畜の増殖に際しては優れた特色を有する個体を選択することで、厳しい環境でも育つ種を保全してきました。こうした中には、乾燥や病気への耐性が優れた固有種もあるとのことで(Red Maasai Sheepなど)、海外からの関心も集めています。これらの知恵は代々先祖から受け継がれてきたもので、伝統的な知識が今日でもマサイ族の牧畜を支えており、厳しい乾燥地域での生活を可能にするための多くの慣習や規則が決められてきたのもマサイの特徴です。

 前述したとおり、伝統的な遊牧は非生産的、前近代的な行為とみなされ、また草地を破壊するものとして認識され、マサイ族の遊牧は数々の介入にあってしまったのですが、最近の研究では、適切な管理を伴う遊牧は、持続可能で効率の良い生産システムであり、またマサイ族の遊牧は、サバンナの野生動物との共存が可能であるばかりか、アフリカを代表する草地の景観の形成や維持に貢献してきたとの報告もあるとのことで、その価値を見直す機運が高まってきました。GIAHSの認定も、そうした認識の変化を背景に、代々引き継がれてきた知識や農法を、次世代にも伝えていくべきとの問題意識も働いたと思われます。さらに、マサイ族は、自分たちの遊牧を民族の生きざまや象徴として考えていることも大きく影響していると思います。すなわち、農業の遺産ではなく、民族の遺産と認識しているのではないかと思われます。

GIAHS取得後のモニタリング

その一方で、マサイ族のGIAHSは、こうしたマサイ族の民族意識、生活様式、経済的・社会的発展という大きな問題にも関与しているため、大変難しい問題を提起しています。このマサイ族のGIAHSの提案と同時に作成された「行動計画」には、家畜のための水場の確保や餌となる草の蓄積や保存などの措置や、伝統的な知識の文書化などの内容が計画されています。しかし、マサイ族が今後も市場経済に取り込まれ、経済や社会の近代化に影響を受けることは必定であり、それにつれてより広範な対策が必要となることも予想されます。マサイ族の子どもの教育など、さまざまな財やサービスのために今まで以上に現金収入が必要になってきています。また食生活も従来の畜産物や質素な穀物中心の食事から、多種多様な食材を食べるものに変化していくことが予想されます。市場経済の浸透により、今まであまり考慮しなくてもすんだ畜産物の品質や安全性の向上も求められるようになるでしょう。こうした環境の変化に、伝統的なマサイ族の牧畜様式を守りながら、どのように対応していくのが良いのかという大きな課題を考える必要が出てきます。GIAHSの取得後、どのような対策や対応が行われているのか、これから情報を収集する予定です。これが今までの連載で述べていたGIAHS採択地域のモニタリングです。そうしたモニタリングの結果、さまざまな対策がどのような効果や影響を受けているのかを評価し、その結果いかんでは、対策の修正や変更を考えていくことが必要になります。「モニタリング」と「評価」が1つの用語として使われるのはこうした背景によるものです。また、GIAHS地域への対策は、民間やNGOや地元農家だけでなく、政府の関与が必要となるものもあるため、GIAHSの立案から提出に至る過程で政府の関与が重要になるのです。マサイ族の場合も、マサイ族の生活やマサイ地域の発展の在り方という大きな問題につながるため、農業政策を超えた対応も求められることが予想されます。

2. タンザニアのアグロフォレストリーシステム

背の高い天然の樹木、バナナやコーヒーや果樹の木の栽培と野菜などの植物を一定の土地に混合栽培し、これらの作物がお互いに支援し合う仕組みを利用した農法があります。アグロフォレストリーと呼ばれる農業生産の形態です。その特徴は、背の高い樹木が強い直射日光から畑や作物を守る日よけの機能や土壌の保水と地力維持の機能を果たし、その木の下に、バナナ、コーヒー、果樹などの木を植え、これらの栽培に適切な環境(適切な湿度)を作り出します。さらにこうした樹木の下で、野菜や農作物を栽培するというものです。場所によっては、多種多様な植物から得られる有機物を飼料として、家畜の飼養まで行うところもあるそうです。アグロフォレストリーは、こうした人為的に作られた環境で生産を行う手法で、それぞれの作物を単独で栽培するよりも、持続可能性やレジリエンス(強靭性)を高めるシステムといわれています。また、こうした多種多様な作物や樹木の栽培により多様な農作物の育成が見られ、生物多様性の保存にも貢献できます。

 タンザニアにあるキリマンジャロ山の東から南の斜面の海抜800-1000m地帯では、長い年月をかけてこうしたアグロフォレストリーの栽培が発達し、今日でも存続していることから、Shimbwe Juu Kihamba Agroforestry(別名Chagga Homegarden)との名称で2011年にGIAHSに指定されました。Chagga Homegardenは、キリマンジャロの山麓にこうした人的な手が加わって形成された独自の景観を維持してきました。また、さまざまな作物を混合栽培するための樹木の選択や管理、作物の育成などのための伝統的な技術に加え、畑を植物の葉で覆う土壌管理手法、水路の維持、畝を作り斜面の崩落を防ぐ技術など、代々引き継がれてきたさまざまな知識が集約されています。

こうした人々の知恵の結集である生産システムですが、近年、経済的、社会的な変革による影響で、若い世代が農業への関心を示さなくなってきていることに加え、この地域で人口が増加したため農地の零細化が進み、経済的に成り立たない農家が増加したこと、さらにコーヒー価格の低迷により農家が貧困に苦しむことになり、加えて、寿命を迎えたコーヒーの木の更新が進んでないというような問題が生じています。また、気候変動や灌漑施設の老朽化により、水不足も発生するようになってきたようです。Chagga HomegardenのGIAHS採択の際に策定された行動計画では、

  • 農民の土壌管理能力の向上
  • より付加価値の高い作物の導入
  • 有機コーヒーの栽培やコーヒー生産力の保持や向上
  • 水路の復旧、ため池の設置などの灌漑効率の改善
  • 伝統的な農法の文書化とその維持
  • 観光業の振興
  • 最低経営規模の設定

などのさまざまな対策を講じることになっています。前述のマサイ族のケースと同様に、この地域での行動計画の実施状況や現状に関する情報収集はこれから実施する予定です。

遠藤 芳英 FAO GIAHS事務局GIAHSコーディネーター

認定地一覧

世界の28カ国、89地域が世界農業遺産に認定されています(2024年9月現在)。

関連リンク
関連ビデオ

世界農業遺産(GIAHS)の概要と申請から認定までのプロセスを、みなべ・田辺の梅システム(和歌山県、2015年に認定)を中心にご紹介するビデオ「世界農業遺産 申請から認定まで ~次世代に継承するために~」が完成しました。日本語版、英語版、フランス語版、スペイン語版があります。